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ポジティブな記憶を思い出しやすい脳のネットワークを発見 ―ストレス耐性の向上やうつ病治療への応用に期待―

掲載日:2022年3月28日更新
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発表のポイント​

  • ​​ポジティブ記憶の想起しやすさに関わる脳のしくみの理解は、それに基づくストレス耐性向上法やうつ病治療のニューロフィードバック訓練法開発等につながることが期待される
  • ポジティブ記憶を想起しやすい人ほど脳の前頭葉と側頭葉のネットワーク結合が強い

 国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(理事長 平野 俊夫。以下「量研」という。)量子生命・医学部門量子医科学研究所脳機能イメージング研究部(主は量子生命科学研究所量子認知脳科学グループ)の山田 真希子グループリーダー、伊里 綾子客員研究員らは、うつ病の治療標的となり得る、ポジティブな記憶の思い出しやすさに関わる脳のネットワークがあることを見出しました。

 うつ病等の気分障害の患者数は、平成29年には127.6万人まで増加し、健康問題による自殺では、うつ病が最も多い原因になっています。これらのことから、うつ病の治療法の確立が急務となっています。

 これまで、ネガティブな思考を抑制・排除すればうつ病を治すことができるという考えに基づく研究が進められてきましたが、ネガティブな精神状態を抑制するだけでは、意欲や自己肯定感が高まらず、抑うつ症状の十分な改善はできないことが分かってきました。

 このような状況の中、うつ病の認知行動療法においてポジティブな情動を高める治療の有用性が注目され始めましたが、ポジティブ情動の向上を科学的に検証する取り組みは進んでおらず、ポジティブ情動を高めるための方法論は確立できていません。

 私たちは、ポジティブ情動を高めることができれば、うつ病問題にも適用できると考え、脳科学領域において開発が進められている、自分の脳活動を自ら制御するニューロフィードバック訓練1)法に注目しました。そして、ポジティブ記憶の想起のしやすさには個人差があるため、ポジティブ記憶を想起しやすい人・しにくい人の脳活動の違いが明らかにできれば、その脳部位を標的としたニューロフィードバック訓練を開発できるのではないかという仮定に基づき、標的となる脳部位を明らかにしようと考えました。

 本研究では、健常成人25名を対象として安静時fMRI2)による脳活動の測定と、ポジティブな感情を喚起する画像をどの程度記憶しているかのテストを行い、得られたデータの解析から、ポジティブ記憶の想起の個人差に関わる安静時脳機能ネットワーク3)を明らかにすることを試みました。その結果、ポジティブな感情を喚起する画像の記憶テストの成績が良い人ほど、前頭葉と側頭葉のネットワーク結合が強いことがわかりました。

 私たちは、ニューロフィードバックの訓練法や訓練の効果を高める方法に関する研究も並行して進めており、その成果と今回得られた成果を組み合わせることにより、ポジティブ記憶の想起しやすさに関わる脳機能ネットワーク結合を強化するニューロフィードバック治療が開発でき、ストレス耐性向上や、うつ病治療へ応用できると考えています。

 本研究は、JSPS科研費(JP20H05711)、日本医療研究開発機構(AMED)「脳科学研究推進プログラム」、文部科学省 光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP、JPMXS0120330644)の支援を受けて行われたものです。なお、本研究成果は、行動神経科学分野に関する国際誌である「Behavioural Brain Research」Vol. 419(令和4年2月15日発行)に掲載されました。

研究開発の背景と目的

 厚生労働省が3年ごとに全国の医療施設に対して行っている「患者調査」によると、うつ病等の気分障害の総患者数は増加傾向にあり、最新の調査(平成29年)では127.6万人となっています。経済協力開発機構(OECD)のメンタルヘルスに関する国際調査では、日本ではうつ病やうつ状態の人の割合は、新型コロナウイルス流行前の2013年の調査時は7.9%だったのが、流行後の2020年には17.3%と2.2倍という結果が示されました。

 昨今の新型コロナウイルス感染拡大の影響で、不安やストレスを感じることも少なくありません。ストレスを放置すると、やがて心身に深刻な影響が生じ、うつ病などの精神疾患を発症してしまう場合もあります。厚生労働省の自殺の統計によると、健康問題を動機とした自殺では、うつ病が最も多い結果となっており、その対策は急務となっています。

 これまでの心理学、脳科学、臨床心理学、精神医学等の分野では、ネガティブな思考を抑制・排除するための技術開発や研究、治療が進められてきました。しかし、ネガティブな精神状態を最小化することだけでは、意欲や自己肯定感が高まらず、抑うつ症状は十分に改善できないことが問題視されてきました。

 そのため、近年、抑うつ症状を改善させるために、ポジティブ情動を高める重要性が指摘され始めています。うれしかったこと、楽しかったことなど、ポジティブな出来事を想起することはその当時のポジティブな状態を呼び起こすことから、ポジティブ記憶の想起はストレスの低減、精神的健康の増進、うつ病患者における抑うつ気分の改善につながる可能性が主に海外を中心とした認知行動療法や心理学研究によって示されています。しかし、科学的根拠に基づいて、ポジティブな情動能力の向上を検証する取り組みはあまり進んでおらず、ポジティブ情動を高めるための方法論は確立できていません。

 近年、脳科学領域において、望ましい心の状態を獲得する方法として、標的となる自分の脳活動を自ら制御するニューロフィードバック訓練法の開発が進められ、さまざまな問題に適用されています。しかし、ポジティブな出来事を想起しやすくなるためのニューロフィードバック訓練法は未だ開発されていません。それを開発するためには、まず、標的となる脳部位を明確にする必要があります。ポジティブ記憶の想起のしやすさには個人差があるため、ポジティブ記憶を想起しやすい人・しにくい人の脳活動の違いが明らかになれば、今後、その脳部位を標的としたニューロフィードバック訓練を開発することができるようになります。

 そこで本研究では、何もせずに安静にしている状態の脳の血流を測定する安静時fMRIと、感情(ポジティブ・ネガティブ・ニュートラル)を喚起する画像の記憶テストを用いて、ポジティブ記憶の想起の個人差に関連する脳機能ネットワークを明らかにすることを目的としました。

研究の手法と成果

 健常成人25名に安静時fMRIと記憶テストを実施しました。記憶テストでは、米国フロリダ大学で認知テスト用に提供されている画像データベースから、ポジティブ・ネガティブ・ニュートラルの各感情を喚起する画像として評定されているものを、感情ごとに34枚ずつ、計102枚用意しました(図1)。なお,本研究の参加者にも,記憶テストの後で表示した画像がどの程度ポジティブと感じられたかを9件法(1:ポジティブ~9:ネガティブ)で評価してもらい、ポジティブ・ネガティブ・ニュートラルな画像として表示した画像が参加者にとってもポジティブ・ネガティブ・ニュートラルな画像として評価されていたことを確認しました。「写真の撮影場所についての判断」という名目のもと、このうち半分の51枚を見てもらい、その20分後に全102枚からランダムに画像を表示する偶発的記憶テストを実施して,ポジティブ画像をどの程度記憶しているかを測定しました(図2)。

 図1 表示した画像の一例
図1 表示した画像の一例
( P.J. Lang, International affective picture system (IAPS) : Digitized photographs, instruction manual and affective ratings, Technical Report (2005). より使用)

 

図2 記憶テストのデザイン 
図2 記憶テストのデザイン

 

 記憶テストの成績はHit率(記銘課題で呈示された画像に対し「あった」と判断できた割合)とFalse alarm率(記銘課題で呈示されなかった画像に対し「あった」と判断した割合)を用いて描いたROC(Receiver Operating Characteristic)曲線4)の下部の面積(0〜1の値をとる)で表現することができます(図3B左図、1人分)。図3B右図に、全参加者のROC曲線から得られたポジティブ情動記憶の成績を示しています。ポジティブ記憶の成績は、個人差が大きいことがわかります。

 次に、安静時fMRIを計測し、脳領域間の脳活動がどの程度同期(相関)しているかを計算しました。そのためにまず、大脳皮質を105の領域に分け,各領域の自発的な脳活動を算出します。自発的な脳活動は、ゆっくりとした周期で変動します(図3A)。次に,異なる領域間の自発的脳活動の同期の程度(相関係数)を算出します。領域間の相関係数が大きいことは,領域間の機能的結合が強いことを意味します。

 最後に、ポジティブ記憶の成績と関連する機能的結合を抽出する解析を行いました。この解析では、ポジティブ情動記憶の成績が良い人ほど、機能的結合が強い脳領域のクラスター(脳機能ネットワーク)を検出します。その際、年齢・性別・ネガティブ情動記憶の成績・ニュートラル記憶の成績といったポジティブ情動記憶以外の要因は排除して、解析を行います。各領域間の脳活動の同期の程度(105×105の組み合わせ)の中で、ポジティブ情動記憶の成績が良い人ほど,機能的結合が強い部位を明るい色で示したのが図3C上段図です。なお,このマトリックスでは機能的に類似した領域が隣り合うように設定されます。次に,ポジティブ情動記憶の成績に一定以上の関連の強さを示した脳領域のクラスター(脳機能ネットワーク)のみを抽出します。抽出されたクラスターを示したのが図3C中段図です。最後に,抽出されたクラスターそれぞれの発生確率に基づき、統計的に意味のある大きさに達していたクラスターだけを抽出します(図3C下段図)。このような過程を経て抽出されたのが、図3最下段にある脳機能ネットワーク図です。したがって、ポジティブ記憶成績が良い人ほど、弁蓋部、側頭平面、ヘッシェル回といった、前頭側頭領域5)の機能的な繋がりが強いことが明らかになりました(図4)。

 図3 解析方法
図3 解析方法


A) 安静時fMRIの計測データから各領域間の脳活動の同期の程度を算出
B) 記憶テストの成績を算出
C)ポジティブ情動記憶の成績に関連する脳機能ネットワークを抽出:A)で算出した各自の各領域間の脳活動の同期の程度(105×105の組み合わせ)とB)で算出した各自のポジティブ情動記憶の成績の関連の強さを計算します。この際,年齢,性別,ニュートラル・ネガティブ情動記憶の成績といったポジティブ情動記憶に関連のない要因は排除して,両者の関連の強さを算出します。このような過程を経て抽出されたネットワークが図最下部の脳機能ネットワークです。

 ​図4 ポジティブ画像の記憶成績の個人差と関連する脳機能ネットワーク
図4 ポジティブ画像の記憶成績の個人差と関連する脳機能ネットワーク
左図の各点は個人の成績を示しています。

今後の展開

 今回ポジティブ記憶の個人差との関連が明らかになった左前頭側頭領域は、これまでの脳科学研究から言語機能と関連することが示されている領域です。特に言語的・概念的なポジティブ情報は記憶に残りやすいことが、これまでの記憶研究から示唆されていることも踏まえると、左前頭側頭領域が担う言語機能はポジティブ記憶の想起に重要な役割を果たしている可能性が考えられます。

 山田らは、ニューロフィードバックの訓練法や訓練の効果を高める方法についても研究を進めています。それらの研究成果と、本研究の成果を組み合わせて、ポジティブ記憶の想起しやすさに関わる脳機能ネットワーク結合を強化するニューロフィードバック治療を開発することにより、ストレス耐性向上や、うつ病治療に応用できると期待されます。本成果に加えて今後、ポジティブ記憶の想起しやすさと脳内分子の関連についても明らかにすることにより、心身の健康に重要な役割を果たすポジティブ情動の脳内メカニズムの理解がさらに進むことが期待されます。

用語解説

1)ニューロフィードバック訓練
 自分の脳活動をリアルタイムに視覚情報としてフィードバックされることにより、標的となる脳部位の活動や領域間の機能的結合を、自ら上げたり下げたりする訓練。自らの脳活動を制御することで、特定の心理機能を増強・減弱させることができるようになる。

2)安静時fMRI
 fMRIとは機能的核磁気共鳴画像法(functional magnetic resonance imaging: fMRI)のこと。これは神経細胞の活動に伴う血流動態反応を視覚化する技法であるが、特別な課題をせず、安静にしている状態での血流動態反応の測定のことを安静時fMRIという。

3)安静時脳機能ネットワーク
 特別な課題をせず、安静にしている状態での自発的な脳血流の変動は、脳の様々な領域間で連動していることが明らかになっている。このように安静時の脳血流の変動の同期の程度が強いことを、「機能的結合が強い」と表現し、同期を示す脳領域のことを「安静時脳機能ネットワーク」という。

4) ROC(Receiver Operating Characteristic)曲線
 日本語では「受信者操作特性」と呼ばれ、主に疾患の有無の判定などを行う際の検査の精度を評価するためなどに用いられるが、個人の記憶の精度、つまり記憶力の評価にも応用されることがある。本研究の記憶テストにおける、Hitとは、記銘課題で呈示された画像を正しく「あった」と判断できることを意味する。また、False alarmとは記銘課題で呈示されなかった画像に対し誤って「あった」と判断してしまうことを意味する。記憶の精度が高い、つまり記憶力が高い場合、Hit率が高く、False alarm率が低くなるはずである。この程度を評価するために、本研究の記憶テストでも個人ごとにROC曲線を描いている。ROC曲線はそのラインが左上近くを通っているほど、記憶の精度が高いことを意味する。そのため、ROC曲線の下部の面積の大きさが記憶力の高さの指標となる。記憶テストにおいて、ROC曲線は次のような方法で描かれる。まず、テストの回答は確信度(まったくない、あまりない、少しある、とてもある)を考慮すると、確信度がとてもある「あった」反応から、確信度がとてもある「なかった」反応まで全8段階ある(図5)。図3B左図には9つの点がプロットされているが、例えば、確信度がとてもある「あった」反応のHit率を縦軸の値、False alarm率を横軸の値として図示したのが、左から2番目の点になる。次に、左から3番目の点は、少しあるの「あった」反応のHitとFalse alarm率を、2番目の点の加算し、算出する。このように全8段階それぞれのHitとFalse alarm率をプロットし、と原点(0,0)と結んで描いた線がROC曲線となる。

 図5 「あった」と判断したとみなす基準をずらす考え方
​図5 「あった」と判断したとみなす基準をずらす考え方
 例えば6番目の点の判断基準は、「確信度がまったくない」「なかった」という反応であるように、「なかった」という反応をしたとしても、「ない」と判断したとみなすことはできない。このため、「なかった」という反応に対しても、「あった」と判断したとみなして、確信度に応じて基準をずらしていく。

5) 前頭側頭領域(前頭葉の弁蓋部,側頭平面,ヘッシェル回)
 両側の大脳半球の前部に位置する前頭葉と,外側溝の下に位置する側頭葉を合わせた領域のこと。特に左半球の前頭葉の弁蓋部は運動性言語中枢と呼ばれるブローカ野が位置する領域である。また、左半球の側頭平面には感覚性言語中枢と呼ばれるウェルニッケ野が位置し、ヘッシェル回は聴覚情報の処理を行う一次聴覚野にあたる。

論文について

タイトル: Resting-state functional connectivity relates to interindividual variations in positive memory

著者: Ayako Isato1,2, Keita Yokokawa1, Makoto Higuchi1, Tetsuya Suhara1,3, Makiko Yamada1,3

所属:

  1.  Department of Functional Brain Imaging, Institute for Quantum Medical Science, National Institutes for Quantum Science and Technology, Chiba 263-8555, Japan
  2.  Faculty of Humanities, Saitama Gakuen University, Saitama 333-0831, Japan
  3. Institute for Quantum Life Science, National Institutes for Quantum Science and Technology, Chiba 263-8555, Japan 

DOI:https://doi.org/10.1016/j.bbr.2021.113663