発表のポイント
- 脳の司令塔である前頭前野1)が関わる「作業記憶」と「意思決定」の2つの機能が、別々の神経経路で処理されていることを世界で初めて明らかにしました。
- 神経細胞に導入すると「スイッチ」のように働く人工受容体2)をPET3)で可視化する技術を用いて前頭前野から脳深部へ伸びる2つの経路を画像化し、情報伝達を個別にオフにすることで2つの機能をコントロール。
- この技術は、霊長類の高次脳機能の仕組みや、神経経路の不調による精神・神経疾患の発症機序の理解、治療法の開発につながることが期待されます。
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(平野俊夫 理事長)量子生命・医学部門 量子医科学研究所 脳機能イメージング研究部(南本敬史 グループリーダー、小山佳 研究員)、および国立大学法人京都大学霊長類研究所(高田昌彦 教授、井上謙一 助教)らの共同研究グループは、脳の司令塔である前頭前野が関わる「作業記憶」と「意思決定」の2つの脳機能は、前頭前野から脳深部に伸びる別々の神経経路で処理されていることを初めて明らかにしました。
脳の中でも前頭前野と呼ばれる領域は、ヒトをはじめとする霊長類で最もよく発達した部位であると同時に、老化に伴っていち早く機能低下が起こる場所の一つとして知られています。特にその中でも、こめかみの少し上あたりにある数cm程度の大きさをもつ前頭前野の背外側部は脳の司令塔としての役割を持ち、記憶、意思決定、注意、実行など、思考や行動の中心となるさまざまな機能をこの領域が担っています。例えば、買い物に出かける時に買うべきものを一旦覚えるのに「作業記憶」が、店で数ある商品から選ぶのは「意思決定」の機能が使われており、そのどちらにもこの前頭前野背外側部が関与することが知られていました。これらの機能が実行されるためには、この脳部位からの指令が他の脳部位に伝えられる必要がありますが、どの機能がどの脳部位に伝えられて処理されているかがわかっていませんでした。
本研究では化学遺伝学4)という手法を使い、神経細胞の「スイッチ」のように働く人工受容体をサルの脳に導入し、導入した人工受容体を陽電子断層撮像法(PET)で可視化する技術を応用しました。その結果、前頭前野背外側部から脳深部につながる2つの神経回路を生きたサルで画像化し、2つの回路の「スイッチ」を別々に操作することにより、「作業記憶」と「意思決定」がそれぞれ別の神経経路で処理されていることを世界で初めて明らかにしました。(図1)。
本研究成果は、ヒト同様に高度に発達した脳をもつ霊長類モデル動物であるサルで脳の神経経路と機能を明らかにできることを示し、ヒトの高次脳機能の仕組みを理解するための大きなブレイクスルーとなることが期待されます。さらに、神経経路の不調が原因と考えられている精神・神経疾患(例えば注意欠如・多動症5)(ADHD)等)の病態理解や治療法の確立などの臨床的研究にも大きく貢献することが期待されます。
本研究は、日本医療研究開発機構(AMED)「脳科学研究戦略推進プログラム」における成果を一部活用したもので、「Science Advances」のオンライン版に2021年6月24日(木)3:00(日本時間)に掲載されました。
図1:本研究の概要図
研究の背景と目的
脳の前の方に位置する前頭前野と呼ばれる領域は、ヒトをはじめとする霊長類で最もよく発達した部位であると同時に、その機能は生後の発達とともに成熟し、老化に伴っていち早く機能低下が起こる場所の一つとして知られています。特にその中でも、前頭前野背外側部は記憶、意思決定、注意、実行など、私たちの日常生活における思考や行動の中心となる機能に関わり、脳の司令塔としての役割を持つことが知られています。例えば、買い物に出かける時に買うべきものを一旦覚えるのに「作業記憶」の機能、店で数ある商品から選ぶのは「意思決定」の機能、というように前頭前野背外側部が異なる機能の指令を出していると考えられています。しかし、この領域からの指令が次にどの脳部位に送られ実際の機能が実現されているか、つまり「作業記憶」と「意思決定」を支える脳回路については分かっていませんでした。
複数の脳部位の間をつなぐ神経経路は複雑に入り組んでいて、どこからどこにつながっているかを特定するためには、神経を伝って運ばれる物質を脳に注入し、脳を取り出して経路を観察する方法が一般的です。しかし、これではどのような情報が流れているかを同時に調べることができません。一方、ネズミなどの小動物では、神経経路の情報の流れを遮断する技術が多用されていますが、ネズミの脳は霊長類の脳とは違う点が多く、特に霊長類で著しく発達した前頭前野の機能を調べるにはサルを用いる必要があります。これらネズミなどの小動物における情報を遮断する技術をサルに応用するためには、個体ごとに神経経路を正確に割り出す必要がありますが、サルの脳は大きく、個体差も大きいことから、霊長類の前頭前野とつながる回路と機能を同時に調べるために技術革新が必要でした。
本研究グループは、これまでに化学遺伝学という手法を使い、神経細胞の「スイッチ」のように働く人工受容体を陽電子断層撮像法(PET)で可視化することにより、サルの神経活動を操作することに成功してきました。今回はこの技術を応用し、前頭前野背外側部からどこに神経経路がつながっているかを調べ、その情報の流れを「オフ」にすることで「作業記憶」「意思決定」が変わるかどうかを調べることで、この2つの機能がどの経路で処理されているかを明らかにすることを目的に研究を行いました。
研究の手法と成果
1.前頭前野背外側部に導入した人工受容体をPETで可視化して、脳深部へ伸びる神経経路を画像化
人工受容体の遺伝子をもつウイルスベクター6)を神経細胞に導入すると、その遺伝子情報をもとに人工受容体が作られ、神経経路の中を通って神経細胞の末端まで運ばれます。神経細胞の末端に発現した受容体を可視化することにより、導入した部位とつながりのある脳領域を調べることができます。
研究グループは、人工受容体に結合するPET薬剤を開発しPETで可視化する技術を確立しています。今回は左右の前頭前野背外側部の神経細胞に人工受容体の遺伝子情報を導入したサルを同技術で撮像することで、どの部位に繋がりがあるかを調べました(図2上)。
その結果、人工受容体を導入した前頭前野背外側部と、尾状核7)、および視床背内側核8)と呼ばれる部位にPET薬剤が高集積しており、これらの脳領域のつながりが示唆されました。そこで実際に脳を取り出してこれらのつながりを調べたところ、PETで調べた結果と非常によく一致していました(図2下)。これらのことから、前頭前野から尾状核、および視床背内側核に伸びる2つの神経経路があることが明らかになりました。
図2:前頭前野に導入した人工受容体をリアルタイムに可視化して、経路を明らかに
(上) PETによる人工受容体の画像化(神経投射先画像化)の模式図。
(左下)前頭前野背外側部への人工受容体遺伝子をもったウイルス注入位置。
(右下)尾状核、視床背内側核における人工受容体に結合したPET薬剤から放射される信号の集積を示すPET画像と、脳組織標本における人工受容体の発現位置の対応。
2.前頭前野背外側部から視床背内側核への情報を遮断することで、作業記憶が障害される
まず、前頭前野背外側部が関与する高次脳機能の一つである作業記憶について、どの経路が関与するかを調べました。神経末端に発現した人工受容体を作動薬(DCZ9))で活性化することで、運ばれてきた情報を数時間に渡って遮断できます。この性質を応用して、DCZを尾状核、または視床背内側核に投与し、それぞれの神経経路を個別に遮断しました(図3左)。作業記憶機能のテストでは、サルが見ている前で左右の穴のどちらかに餌を入れて蓋をし、待ち時間の間カーテンを引いて目隠しをした後、サルに餌が入っている穴を当てさせました(図3右上)。
その結果、前頭前野背外側部から視床背内側核へと伸びる経路の情報を遮断した際に、サルは正しい餌の位置を選ぶ正答率が通常より大きく下がって、作業記憶が障害されることがわかりました(図3右下)。一方、前頭前野背外側部から尾状核へと伸びる経路を遮断した場合は、正答率に影響はありませんでした。これらの結果は、前頭前野背外側部から視床背内側核へと伸びる経路は作業記憶の実現に必須の役割を担っていることを意味しています。
図3:各経路を遮断した際の作業記憶に与える影響
(左)人工受容体の作動薬(DCZ)を投与することによる神経情報伝達の遮断の模式図
(右上)作業記憶機能をはかるテストの模式図。
(右下)作動薬を尾状核、視床背内側核に投与することによるそれぞれの経路の遮断を行った際の、サル1の作業記憶テストの正答率。同様の結果がサル2でも確かめられた。前頭前野背外側部から視床背内側核への経路遮断で有意な正答率の低下がみられた(*p<0.05)
3. 前頭前野背外側部から尾状核への情報を遮断することで、意思決定が影響される
次に、前頭前野背外側部が担う別の重要な高次脳機能である意思決定が、いずれの経路で処理されているかを調べました。意思決定のテストでは、サルに目の前の左右二つの穴に入っている餌から1つを自由に選ばせました(図4左上)。以前の研究から、左への選択には右脳が、右への選択には左の脳が、というように反対側の脳がより強く関与していることが知られています(図4右上)。そのため、この実験では左右1対ある尾状核または、視床背内側核の片側に人工受容体の作動薬(DCZ)を投与して、片側の神経経路の遮断を行いました(図4左中)。
その結果、前頭前野背外側部から尾状核へと伸びる経路を遮断すると、サルの選択行動に偏りが生じ、例えば左側の尾状核を遮断すると左側の餌を選ぶといったように、遮断をした側と同じ方向の穴に入っている餌をより選ぶようになりました(図4左下オレンジ)。一方、前頭前野背外側部から視床背内側核へと伸びる経路を遮断した際には、経路を遮断していない場合と同様に、左右の穴からほぼ同じ割合で餌を取りました(図4左下緑)。
これらの結果は、前頭前野背外側部から尾状核へと伸びる経路では、脳と反対側の方向を選ぼうとする意思決定にかかわる情報が送られており、作動薬を作用させて片側の神経経路を遮断したことで左右の脳に流れる情報がアンバランスになったと解釈できました(図4右下)。
図4:各経路を遮断した際の意思決定に与える影響
(左上)左右の餌いずれかの自由選択課題。
(左中)作動薬を尾状核、視床背内側核に直接投与することによるそれぞれの経路の遮断。片側の脳にだけ投与し、片側の神経経路のみの遮断を行った。
(左下)各操作を行った際の、選んだ餌の選択度。0は左右均等に選択し、1は遮断した経路と同じ方向の、-1は逆の方向の餌を選んだことを示している(*p<0.05)。
(右)選択には反対の脳が関与するというスキーマ。
以上の2つの実験結果から、前頭前野背外側部から繋がる尾状核と視床の経路はそれぞれ意思決定と作業記憶に必須の経路であることが明らかになりました。
今後の展開
本研究の成果は、ヒト同様に高度に発達した脳をもつ霊長類モデル動物であるサルにおいて、これまで困難であった脳回路と機能を同時に調べることが可能であることを示しており、ヒトの脳機能理解における大きなブレイクスルーとなることが期待されます。また、精神・神経疾患における症状には神経経路における情報の流れの不調が密接に関係すると考えられているものもあります。例えば、注意欠如・多動症(ADHD)でみられる不注意、落ちつきのなさ、衝動性などは、本研究でも対象とした前頭前野からの情報の流れの不調が生じているという可能性が考えられています。本研究で用いた手法により、このような症状を一時的に再現するサルモデルを作出し疾患の病態仮説を検証することが可能となり、さらに病態を改善する治療薬の探索に利用するなど、診断・治療法の確立にむけた臨床応用研究にも大きく貢献することが期待されます。
用語解説
1.)前頭前野
系統発生的に霊長類、特にヒトで最もよく発達した脳部位で、思考や創造性などの高次脳機能を担う脳の最高中枢と言われています。作業記憶や意思決定も前頭前野が担う機能としてよく知られています。
2.)人工受容体
本来生体内に存在する受容体(内因性受容体)に遺伝子変異を入れることにより作られた、人工の受容体。通常、神経細胞では内因性受容体に神経伝達物質(リガンド)が結合することで活動が変化します。一方、人工受容体は、生体内に存在するいかなるリガンドも結合せず、特定の人工リガンド(作動薬)のみが結合して神経活動が変化します。今回、神経細胞の「スイッチ」として導入した人工受容体は抑制性の(スイッチをオフにする)機能をもつものであり、以前本研究グループが開発したデスクロロクロザピン(DCZ)が結合します。
3.)PET
陽電子断層撮影法(Positron Emission Tomography)の略称。ポジトロン核種(11C、13N、15O、18F等)で標識したPET薬剤を体内に投与し、特定の体の部位に集積したり体内物質に結合したりするPET薬剤から放射される陽電子に起因するガンマ線を検出することによって、体深部に存在する生体内物質の局在や量を測定して画像化する方法です。今回は人工受容体に結合するDCZを放射性標識した[11C]DCZをPET薬剤として用いました。
4.)化学遺伝学(chemogenetics)
遺伝子変異等によって作られた人工受容体と、生体内に存在する受容体には作用しない人工の作動薬の組み合わせによって神経活動を操作する研究手法です。
5.)注意欠如・多動症(ADHD)
注意の欠如や多動・衝動性を主な特徴とする発達障害の一つ。いまだ詳しい原因は明らかにされていませんが、前頭前野の機能不全や前頭前野と尾状核などの関連領域との間の情報のやり取りがうまくできていないことにより引き起こされるのではないかとする報告があります。
6.)ウイルスベクター
細胞への遺伝子導入を目的に、ウイルスが持つ細胞への感染性を利用し、病原性に関する遺伝子に代わり外来の目的遺伝子を組み込んだものです。遺伝子治療にも応用されています。
7.)尾状核
脳の比較的前方の深部にある領域で、前頭前野とのつながりがあり、運動機能や学習、意思決定などに関与することが知られています。
8.)視床背内側核
脳の中央部付近の深部にある領域で、前頭前野とのつながりがあり、学習や、意思決定、短期記憶などに関与することが知られています。
9.)デスクロロクロザピン(Deschloroclozapine)
本研究で用いた作動薬の名称。略称はDCZ。
研究者のコメント
霊長類の脳機能研究は制限も多く、時間がかかってしまうことも多いですが、その分私たちヒトの複雑な脳の仕組みの解明や、神経疾患に悩まれている方々の治療法の確立に近づけているのではないかという充実感があります。まだまだ道のりは遠いですが、本研究がその一助となることを期待しております。
論文について
タイトル:Chemogenetic dissection of the primate prefronto-subcortical pathways for working memory and decision-making
著者:Kei Oyama1, Yukiko Hori1, Yuji Nagai1, Naohisa Miyakawa1, Koki Mimura1, Toshiyuki Hirabayashi1, Ken-ichi Inoue2,3, Tetsuya Suhara1, Masahiko Takada2, Makoto Higuchi1, Takafumi Minamimoto1, *
所属:
- Department of Functional Brain Imaging, National Institutes for Quantum and Radiological Science and Technology
- Systems Neuroscience Section, Primate Research Institute, Kyoto University
- PRESTO, Japan Science and Technology Agency