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プレスリリース

見た物の記憶を保持する霊長類の脳ネットワークとメカニズムを解明-認知症の記憶障害治療への応用に期待-

掲載日:2024年7月10日更新
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QST縦ロゴ京都大学ロゴ令和6年7月10日

国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構
 国立大学法人京都大学


 

発表のポイント

  • 見た物についての記憶の保持を脳の一部が担う事は知られていたが全貌と作動メカニズムは30年来の謎だった。
  • 世界で初めて、見た物についての記憶を保持する脳ネットワークを霊長類で特定し、作動原理を解明した。
  • 認知症などにおける記憶障害の原因となる脳部位や仕組みの解明、治療法の開発に繋がることを期待される。

概要

 量子科学技術研究開発機構(理事長 小安重夫、以下「QST」)量子医科学研究所脳機能イメージング研究センターの平林敏行主幹研究員・南本敬史次長らは、京都大学(総長 湊 長博)ヒト行動進化研究センター 高田昌彦教授らとの共同研究により、見た物についての記憶を保持する脳ネットワークを霊長類で特定し、その作動原理を明らかにすることに、世界で初めて成功しました。
 今から30年ほど前に、見た物の形や色についての高度な視覚情報を処理する側頭皮質前方部1)という場所が、物を見てそれを覚えておく「視覚記憶」を担うことがわかりました。しかし実際に視覚記憶を担うのは側頭皮質前方部だけではなく、それを含む脳ネットワークであり、その全貌と作動メカニズムは長い間未解明でした。
 QSTはこれまで、脳の特定領域の活動を自在にオン・オフする化学遺伝学2)という技術を世界に先駆けて霊長類で実現し、さらにその技術の飛躍的な精度向上でも世界をリードしてきました。本研究ではこの独自技術を応用して、視覚記憶に関わる脳ネットワークと作動メカニズムを、ヒトに近い脳の構造と機能を持つサルで初めて明らかにすることに成功しました。

視覚記憶のネットワークメカニズムの概要図
​図1:本研究で明らかになった、視覚記憶のネットワークメカニズムの概要図

 本研究では、まず物を見てそれを覚えておく課題中のサルの脳活動を広く計測し、見た物を「覚えている」間に活動する脳領域として、予想された側頭皮質前方部に加えて、より高次な、これまでは情動や価値に基づく意思決定などに関わるとされてきた眼窩前頭皮質3)という領域が含まれることを突き止めました。そしてこの眼窩前頭皮質の活動を化学遺伝学で止めると、長く覚えておくことだけができなくなり、かつその時に側頭皮質前方部における個々の神経細胞では、物を「見ている」時の活動は保たれ、記憶に重要な「覚えている」時の活動だけが弱まることを発見しました。これらの結果から、側頭皮質前方部と眼窩前頭皮質は見たものを覚えておくためのネットワークを形成し、物を「見ている」時は視覚入力によって側頭皮質前方部がボトムアップ4)に活動する一方、見た物を「覚えている」時は、眼窩前頭皮質から側頭皮質前方部へのトップダウン入力5)によって記憶が保持される、という視覚記憶のネットワークメカニズムが、初めて明らかになりました。
​ 本研究によって視覚記憶のメカニズム理解が進むだけでなく、霊長類で初めて特定した視覚記憶ネットワークをヒトで人工的に活性化することで、認知症で障害された視覚記憶を回復させるといった臨床応用が期待されます。

 本研究は、日本医療研究開発機構(AMED)戦略的国際脳科学研究推進プログラム「マルチスケール脳回路機能解析プラットフォームの構築」および脳科学研究戦略推進プログラム「化学遺伝学イメージング:神経路の可視化と操作による意思決定ネットワークの解明」、JSPS科研費(JP15H05917, JP20H05955, JP17H02219, JP24H00734)における成果を一部活用したもので、神経科学を始め広い範囲の重要な科学的発見に関する論文が数多く発表されている国際誌「Nature Communication」誌のオンライン版に、2024年7月10日(水)19:00(日本時間)に掲載されました。

【研究開発の背景と目的】

 目の前にいる猫の模様を覚えておいて、物陰に猫が隠れてしばらく経った後に出てきても、さっき見たのと同じ猫だとわかる、といった物体の視覚短期記憶には、脳の中でも特に、物体の色や形についての高度な視覚情報を処理する側頭皮質前方部が重要であることが、30年ほど前から知られていました。しかし、脳機能はたった一つの領域だけではなく、いくつかの領域から成る「ネットワーク」によって実現されており、視覚短期記憶も側頭皮質前方部が他の領域とネットワークを形成することで成立していると考えられます。ところが、側頭皮質前方部が他のどの脳領域とネットワークを形成して、それがどう働いて視覚短期記憶を実現しているか、またネットワークの中で、いつ、どのような情報がやり取りされることで視覚短期記憶が実現し、それが寸断されたら記憶がどうなるのか、といったことはこれまで調べられておらず、30年来の謎として残されていました。こうした問いに答えるには、まず視覚記憶を使っている時の脳全体の働きを見て、側頭皮質前方部の「パートナー」領域を特定し、次にパートナー領域の活動を人為的に止めた時に側頭皮質前方部の働きがどう変わるかを、ネットワーク全体と個々の神経細胞の両方の空間スケールで見る必要がありますが、そのような研究は技術的に難しく、これまで行われていませんでした。

【研究の手法と成果】

 本研究では、サルに視覚記憶課題を訓練しました。この課題では、まず画面に一つの図形を呈示した後、数秒のあいだ隠しておきます。その後にさっきと同じ図形と、それとは別の図形を同時に呈示して、サルが前者の方に触れると、正解としてジュースがもらえます。この課題を解いている時のサルの全脳の血流量を15O-H2O PET 6)という方法で計測し、記憶に関わる全脳の神経活動を調べました。
 その結果、見た図形を覚えている間に強く活動する脳領域として、予想された側頭皮質前方部に加えて、前帯状皮質と後頭頂皮質、そしてこれまでは情動や価値に基づく意思決定などに関わると考えられていた眼窩前頭皮質が捉えられました。これらの領域から、側頭皮質前方部とネットワークを形成しているパートナーを絞り込むために、さらに脳領域どうしのつながりを調べる機能的MRI結合解析7)をおこなった所、特に眼窩前頭皮質が側頭皮質前方部と最も強くつながっていることがわかり、これら2つの領域から成る前頭葉―側頭葉ネットワークによって物体の視覚短期記憶が実現していることが示唆されました(図2)。

視覚記憶課題と脳機能イメージングによる視覚記憶ネットワークの同定
​図2 視覚記憶課題と脳機能イメージングによる視覚記憶ネットワークの同定

 次に、視覚記憶において側頭皮質前方部のパートナーであることが分かった眼窩前頭皮質の活動を、化学遺伝学という方法で人為的に一時的に抑制し、視覚記憶課題の成績を調べました。すると、視覚機能は正常なまま、記憶成績だけが下がったことから、眼窩前頭皮質は単に視覚記憶に「関連」した活動を示すだけでなく、視覚記憶に「必要」な脳領域であることが分かりました(図3)。

視覚記憶の障害は、抑制ありとなしの間で統計的に有意な差があることを表す

図3 化学遺伝学を用いた眼窩前頭皮質の抑制による視覚記憶の障害は、抑制ありとなしの間で統計的に有意な差があることを表す。

 眼窩前頭皮質の抑制による記憶成績低下の背景に、どのようなネットワーク作動の変化があるかを調べるため、今度は眼窩前頭皮質の活動を抑制した状態で記憶課題を解いている時の全脳の活動を、15O-H2O PETで調べました。その結果、眼窩前頭皮質の活動を抑制すると、同時に側頭皮質前方部の活動も下がることが分かり、記憶成績の低下は、前頭葉―側頭葉ネットワーク全体の機能不全によることが示唆されました(図4)。

眼窩前頭皮質の抑制による、側頭皮質前方部の遠隔抑制
​図4 眼窩前頭皮質の抑制による、側頭皮質前方部の遠隔抑制

 次に、視覚記憶中に眼窩前頭皮質の活動を抑制した時に、同時に抑制が見られた側頭皮質前方部で、個々の神経細胞の活動がどう変化しているのかを電気生理学的手法8)で調べました。まず覚えている時に活動が見られた側頭皮質前方部で個々の神経細胞の活動を調べたところ、特定の物体を「見ている」時と、それを「覚えている」時の両方で活動する神経細胞が多く集まっており、15O-H2O PETによってマクロレベルで見られた「覚えている」時の脳活動は、ミクロな細胞レベルで見ると、こうした神経細胞の集団的な活動を反映していたことが分かりました。
​ 最後に、側頭皮質前方部の同じ神経細胞の活動を、眼窩前頭皮質の抑制前と抑制中とで比べたところ、物体を「見ている」ときの活動は眼窩前頭皮質を抑制しても弱まらず、「覚えている」ときの活動だけが弱まることがわかりました(図5)。

眼窩前頭皮質の抑制による側頭皮質前方部における神経細胞活動の遠隔抑制
​図5 眼窩前頭皮質の抑制による側頭皮質前方部における神経細胞活動の遠隔抑制
 見ている時と覚えている時、それぞれ左は課題中に電気生理学的手法で記録した神経細胞活動の経時変化、右はそれをまとめたものを、50個の神経細胞活動の平均値(濃い線)と±標準誤差(薄い上下2本の線)で表す。最適・非最適刺激は、各神経細胞が最も強く反応する刺激と、最も弱く反応する刺激を表す。+は最適と非最適、*は抑制前と抑制中の間で、それぞれ統計的有意な差があることを表す。

 さらに、側頭皮質前方部における神経細胞のこうした特徴的な活動変容は、眼窩前頭皮質の活動を抑制していない正常な状態でも、サルが呈示された図形を覚えられなかった時に見られたことから、物体を「覚えている」ときの側頭皮質前方部の活動は、単に覚えている時に見られるというだけでなく、サルが実際にその物体を覚えているかどうかを反映していることが示唆されました。これらの結果から、側頭皮質前方部は、物体を「見ている」時には外から入って来るボトムアップの視覚入力によって活動するのに対して、見た物を 「覚えている」時は、眼窩前頭皮質からのトップダウン入力によって記憶情報を保持し、かつそうした情報の保持が、見た物を覚えておくのに必要である、ということが分かりました(図1)。このように、化学遺伝学、脳機能イメージング、そして神経細胞活動記録を組み合わせることで、30年もの間未解明のままだった、物体の視覚記憶を担う霊長類の前頭葉―側頭葉ネットワークとその作動原理が、世界で初めて明らかになりました。

今後の展開】

 本研究によって視覚記憶のメカニズム理解が進むだけでなく、ヒトに近い脳の構造と機能を持つサルにおいて本研究で初めて特定したネットワークを人工的に活性化することで、散歩中にさっき見た風景を正しく思い出すといった、認知症などで障害された視覚記憶を回復させるなどの臨床応用も期待されます。また、本研究で用いた化学遺伝学と脳機能イメージング、そして神経細胞活動記録を組み合わせた強力なアプローチを応用することで、ヒトをはじめとする霊長類でのみ見られるような他の高度な認知・情動機能や、脳疾患の症状に関わる機能不全についても、その背景にある、まだ解かれていない脳ネットワークとその作動メカニズムを因果的に明らかにすることができると期待されます。

【用語解説】

1)側頭皮質前方部

 脳の側方にある側頭皮質の前の方にある領域で、物の色や形などについての視覚情報を処理する視覚経路の最終段であり、物体の視覚認識や視覚記憶に重要な役割を果たす事が知られています。

2)化学遺伝学

 遺伝子変異などによって作られた人工受容体と、その人工受容体にのみ作用する人工の作動薬の組み合わせによって神経活動を操作する研究手法です。

3)眼窩前頭皮質

 脳の前方に位置する前頭前皮質の中で、一番下にある領域。報酬や情動に関わる他の脳領域との繋がりが強く、そうした機能やそれらに基づく意思決定などに関わることが良く知られています。

4)ボトムアップ

 見た物の形に関する視覚情報は、目の網膜から視床を経て、まず後頭葉にある初期視覚野に入り、物体を構成する直線などのごく単純な形の処理から始まり、それらが組み合わされたより複雑な形の処理へと進みながら側頭葉を前の方へと進み、形の処理の最終段である側頭皮質前方部に至って物体全体の形の処理が行われます。この情報処理の流れは、ボトムアップと呼ばれます。水の中の酸素を放射性標識して、その水を血中から脳内に取り込ませて放射能を測ることで、脳局所における血流量を、全脳に渡って測ることができる、

5)トップダウン入力

 例えば、視野の中に多くある物の中で、特定の物だけに注意を向けるなどの認知機能は、制御や実行を担う前頭前皮質から、物の形についての視覚情報処理を担う側頭皮質への入力によって実現されています。こうした情報の流れは、外からの視覚入力から始まるボトムアップとは逆向きの流れであり、トップダウン入力と呼ばれます。

 

6)15O-H2O PET

 脳機能イメージング手法の一つ。これによって、特定の課題を解いている時の神経活動を、全脳で調べることができます。

7)機能的MRI結合解析

 互いにつながっている脳領域どうしは、活動の変化の仕方がお互いに類似する、という性質を利用して、機能イメージングで得られた、全脳の神経活動の変化を領域ごとに比べ、その類似度から脳領域どうしのつながりの強さを非侵襲に調べる方法です。

8)電気生理学的手法

 本研究では、脳に電極を刺入して個々の神経細胞の活動を記録しました。15O-H2O PETのような脳機能イメージングに比べ、神経活動を記録できる空間的範囲が電極刺入部位に限られる一方、時空間的な分解能がはるかに優れていることから、両者を組み合わせることで、脳ネットワークの作動やその変容を、様々な側面から包括的に捉えることができます。

【掲載論文】

タイトル:Multiscale Chemogenetic Dissection of Fronto-temporal Top-down Regulation for Object Memory in Primates

著者:Toshiyuki Hirabayashi1,*, Yuji Nagai1, Yuki Hori1, Yukiko Hori1, Kei Oyama1, Koki Mimura1, Naohisa Miyakawa1, Haruhiko Iwaoki1, Ken-ichi Inoue2, Tetsuya Suhara1, Masahiko Takada2, Makoto Higuchi1, and Takafumi Minamimoto1
(*:責任著者)

所属:

  1. Advanced Neuroimaging Center, National Institutes for Quantum Science and Technology
  2. Center for the Evolutionary Origins of Human Behavior, Kyoto University​

掲載誌:Nature Communications​

DOI:https://doi.org/10.1038/s41467-024-49570-w