【9月19日訂正】本リリースの論文について掲載が遅れております
【9月20日追記】令和6年9月19日に論文公開されました
令和6年9月19日
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構
発表のポイント
- ナノ量子センサの哺乳類体内への導入、導入先からの信号の取得は、困難であった。
- ナノ量子センサの導入・計測技術を工夫し、乳がんのリスク因子である乳腺炎を発症したラットの患部に狙い通りに届け、体内からの信号を得て温度計測に成功した。
- 本研究により、今後は温度など客観的な計測値と細胞の状態との関係が明らかにされ、がん研究などの生物・医学研究に新たな視点をもたらすものと期待される。
概要
量子科学技術研究開発機構(理事長 小安重夫、以下「QST」)量子生命科学研究所の鱧屋隆博博士研究員(現・京都府立医科大学プロジェクト研究員)、神長輝一研究員、今岡達彦チームリーダー、五十嵐龍治グループリーダーらは、ナノ量子センサによって実験用哺乳類体内の細胞の微小領域の温度測定に世界で初めて成功しました。
量子センサは、ダイヤモンド結晶中に形成した窒素-空孔中心(NVセンター)の量子効果を使って、半導体内部など微小な領域の温度等を精密に測定するために利用されています。最近では、ナノサイズの量子センサを細胞内に導入して温度などを計測し細胞の詳細な情報を得るための次世代センシング技術としての開発が進められ、生物学、医学、生命科学への応用が期待されています。
しかし、これまでナノ量子センサを使った計測は培養細胞や取り出した組織などに限定され、哺乳類などの生体内で細胞が働くその瞬間の情報を得ることは、技術的なハードルが高く実現できませんでした。
その理由として、哺乳類では注入されたナノ量子センサが全身に拡散してしまうこと、計測に必要な可視光が厚い組織を透過できないこと、呼吸や脈動などの生理現象が測定の邪魔になることが挙げられます。
我々は、これらの技術的な困難を克服する手法を開発し(図)、乳がんのリスク因子である乳腺炎を発症したラットの生体内細胞の温度計測に世界で初めて成功しました。
本成果により、哺乳類体内で活動する細胞そのままの状態での温度計測が可能になりました。また、生体内での計測で問題となる毒性は検出されず、量子センサを生体内にとどめたまま、細胞内の温度変化を数か月に渡って捉えることも原理上可能となりました。今後、細胞内の詳細な温度変化と細胞の状態との関係がわかってくれば、ナノ量子センサによる生体内細胞計測は、がん研究をはじめとした、生物・医学研究に新たな視点をもたらすと期待されます。
本研究は、ナノスケールの革新的科学技術に関する論文が数多く発表されている国際誌Nanoscale Horizonsに令和6年9月19日(日本時間)にオンライン掲載されます。
研究開発の背景と目的
蛍光ナノダイヤモンドの窒素空孔中心(NVセンター)を持つ量子センサによる計測(量子センシング)(用語解説参照)は、例えば、細胞内の温度分布や熱伝導率、分子1個の動きなどを捉えることを可能にしました。しかし、このような計測を生きた哺乳類に応用するには、量子センサの生体分布や毒性を明らかにすることが必要で、また、量子センサを用いた計測では、可視光をセンサに当てることも必要です。しかし、哺乳類の体内に可視光を届かせるのは困難であること、呼吸の動きや脈動といった生理現象が計測を妨げることなど、大きな課題がありました。そこで、乳腺生物学と乳がん研究の重要なモデルであるラット乳腺上皮を対象にして、200ナノメートルサイズ(1ナノメートルは1ミリメートルの100万分の1)の量子センサを用い、生体内における微小環境の温度測定技術を開発しました。
図1 ラットの体内に量子センサを投与し温度計測を行うために行った工夫
本研究では、乳腺内に薬剤を直接導入するために使用される特殊技術である乳管内注入法を用いて、量子センサをラットの乳腺に直接注入しました(図1(1))。この方法は、血管内などへの通常の投与方法と違い、注入された量子センサが全身に散らばることなく乳腺内に留まるというメリットがあります。実際、乳腺組織切片の顕微鏡観察から、ほとんどの量子センサが少なくとも8週間は乳腺上皮内に留まっていることが示されました(図1(2))。また、量子センサを投与したラットの体重変化に異常は見られず、乳腺組織の病理学的検査でも明らかな変化は見られなかったことから、問題になるような毒性はないと考えられました。
乳腺は皮膚の直下にある組織です。量子センサの量子状態を操作して、量子センサ周辺の温度を計測するための信号を得るには、可視光を量子センサに届かせる必要があります。そのため、ラットに麻酔をし、計測部分の皮膚を小さく切開して、可視光が透過できるガラス窓を取り付けるという工夫を行いました。また、量子センサがナノサイズであることを活かし、約0.1mm×0.1mmほどの微小な領域の温度計測に挑戦しました。量子センサのサイズに対し、ラットの体の動きは非常に大きいものです。実際、ラットの呼吸や血管の脈動に伴って、量子センサが周期的に運動し、量子状態の計測を妨げることが問題になりました(図1(3)上)。そこで、呼吸の動きに伴う信号、脈動から出る信号、量子センサの測定に使う信号の特性の違いに着目して呼吸、脈動からの信号を除去することでラットの動きの影響を緩和し、計測誤差を下げることに成功しました(図1(3)下)。
乳腺炎の患部では温度が上昇することが知られていることから、ラットに実験的に乳腺炎を引き起こし、乳腺内の微小領域の温度計測を試みました。乳腺炎を引き起こすために、細菌に由来するリポ多糖という物質を片側の乳腺に乳管内注射によって投与しました(図1(4)左)。すると、細菌由来物質を投与していない右側と比べて、投与した左側では約1℃温度が上昇していることを検出できました(図1(4)右)。
今後の展開
本研究は、哺乳類体内で量子センサによる温度計測に世界で初めて成功した成果です。このことは、生物医学研究において、培養細胞や線虫のような小さな対象にしか適用されてこなかった量子センシングを、ヒトに近い哺乳類実験動物モデルに拡大し、その生理学的および病理学的プロセスをリアルタイムでモニタリングするための基礎となるものです。実際に、医学、生物学研究の現場では、ラットの乳腺は乳腺炎の他にも乳がんの実験モデルとしてよく使われています。
がん細胞が正常細胞よりも高い温度に弱いことを利用したがん治療法がありますが、温度と細胞の関係には、未だ解明されていないことが多くあります。量子センサを哺乳類に応用できることを実証した本成果は、温度とがん細胞の関連を解明することを通して、がん研究を発展させる可能性を秘めています。また、量子センサは温度以外にも、pHや電場、磁場、粘性など、生命現象の理解に重要な項目の計測にも利用できることがわかっています。それらの計測を哺乳類体内で行うことにも挑戦していく予定です。これらを通して、発がんプロセスの解明やがんの診断、治療、予防につながる研究開発の進展が期待できます。
謝辞
本研究は、文部科学省光・量子飛躍フラッグシッププログラム(Q-LEAP)「量子生命技術の創製と医学・生命科学の革新」(代表者:馬場嘉信 QST量子生命科学研究所所長、JPMXS0120330644)及び「固体量子センサの高度制御による革新的センサシステムの創出」(代表者:波多野睦子 東京工業大学教授、JPMXS0118067395)と内閣府 官民研究開発投資拡大プログラム(PRISM)の支援を受けて行われました。
用語解説
○蛍光ナノダイヤモンドのNVセンター
おおよそ100ナノメートル以下のダイヤモンドをナノダイヤモンドと呼ぶ。研究や工業分野などでは人工的に作られたダイヤモンドが用いられる。化学構造は宝飾品として用いられる天然のダイヤモンドと全く同じだが、人工ナノダイヤモンドは非常に安価なため、研磨剤やエンジンオイルの添加剤、鉛筆の芯の潤滑剤などとしても幅広く利用されている。その中でも、結晶中にNVセンターの構造を持つようなナノダイヤモンドは、赤色の蛍光を発することから「蛍光ナノダイヤモンド」と呼ばれる。NVセンターは、ダイヤモンド結晶中の不純物窒素(nitrogen)と、その隣に形成された空孔(vacancy)が作る原子配列の乱れ・欠陥である。NVセンターは周辺環境の変化に極めて敏感に検知して量子状態が変わる特性があり、この特性をセンサとして利用できる。このため、NVセンターを持つダイヤモンドは「量子センサ」と呼ばれて注目されている。本研究のNVセンター作成はQST高崎量子技術基盤研究所量子機能創製研究センター(センター長 大島武)の技術を用いて同研究所の電子線照射施設において行われた。
○量子センサによる温度計測
NVセンターに閉じ込められた電子の量子状態を操作したり、その変化を読み取ったりすることで、量子センサ周辺の温度を計測することが可能である。この計測には、NVセンター中の電子が持つ「スピン」という性質を利用する。NVセンターのスピン状態には「0」、「+1」、「-1」の3つがあり、通常は「0」の状態が最も安定している。しかし、適切な周波数のマイクロ波を当てると、スピンは「0」から「+1」または「-1」の状態に変化する。また、温度が高くなると、このスピン状態の変化を引き起こすマイクロ波の周波数は低くなる。この性質を利用して、マイクロ波の周波数を測定することで、温度を計測することができる。
スピン状態の変化は、NVセンターが発する光によって読み取ることができる。NVセンターは緑色のレーザー光を当てると赤い光を発するが、この光の強さはスピンが「0」の状態にある場合と「+1」や「-1」の状態にある場合では異なる。具体的には、スピンが「0」の状態では強い赤い光を発するが、スピンが「+1」や「-1」の状態では赤い光が弱くなる。この現象を利用し、赤い光の強さが弱くなる周波数を調べることで、非常に正確に温度を測定することができる。
グラフ(【研究の手法と成果】図1の(3)、処理後のグラフ)は、2855 MHzや2885 MHzのマイクロ波を当てた後の赤い光が強いことを示しており(赤い矢印)、多くのNVセンターがスピン「0」の状態であることがわかる。すなわち、この周波数(赤い矢印)のマイクロ波を当ててもスピンは「0」の状態のままである。一方、2865 MHzや2875 MHzのマイクロ波を当てた後は赤い光が弱くなっており(青い矢印)、多くのNVセンターが「+1」や「-1」の状態に変化していることがわかる。すなわち、これらの周波数(青い矢印)のマイクロ波を当てることで、スピンの状態が「0」から「+1」または「-1」に移動することを意味している。なお、ギザギザの線は実際のデータを示しており、なめらかな線はそれにフィットするように調整した関数である。この方法によって、「スピンの状態を0から±1に移動させることができるマイクロ波の周波数」を正確に特定でき、それをもとに温度を計測することができる。
掲載論文
タイトル:Intravital Microscopic Thermometry of Rat Mammary Epithelium by Fluorescent Nanodiamond
著者:Takahiro Hamoya1,2, Kiichi Kaminaga1,3, Ryuji Igarashi1,3,4,5,6, Yukiko Nishimura3, Hiromi Yanagihara1,3, Takamitsu Morioka1,3, Chihiro Suzuki1, Hiroshi Abe7, Takeshi Ohshima7, Tatsuhiko Imaoka1,3
著者所属:1量子科学技術研究開発機構 量子生命科学研究所
2京都府立医科大学 大学院医学研究科分子標的予防医学
3量子科学技術研究開発機構 放射線医学研究所放射線影響予防研究部
4東京工業大学 生命理工学院
5千葉大学 大学院融合理工学府
6東北大学 大学院医学系研究科
7量子科学技術研究開発機構 高崎量子技術基盤研究所量子機能創製研究センター
雑誌名:Nanoscale Horizons
DOI: https://doi.org/10.1039/D4NH00237G