2025年3月11日
株式会社Quemix
旭化成株式会社
国立大学法人東京大学
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構
発表のポイント
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近年、(ゲート方式)量子コンピュータ※1の研究開発は、計算途中で発生する計算誤りを検出し訂正し計算を実行することのできる「誤り耐性量子コンピュータ(FTQC※2)」の開発競争の時代に突入しています。FTQCの性能を最大限に引き出すためには、FTQCに特化した量子アルゴリズム※3の開発とその実証が不可欠です。一方、窒化アルミニウムはウルトラワイドバンドギャップ半導体として現在UV-LEDなどに用いられ、次世代半導体としても期待されている材料ですが、その特徴より量子ビット材料の母材としての可能性も考えられていました。
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今回、株式会社Quemix(以下、Quemix)、旭化成株式会社(以下、旭化成)、東京大学、量子科学技術研究開発機構(以下、QST)による研究グループは、Quantinuum社製量子コンピュータと東京大学物性研究所のスーパーコンピュータを連携させたハイブリッドコンピューティングを用いて量子化学計算※4を実行し、窒化アルミニウムの新たな用途の可能性を示すことに成功しました。特に、量子コンピュータ実機上での、量子誤り検出符号を用いた論理ビット上で基底状態計算のためのFTQC向けアルゴリズムの実行は世界で初めて(2025年2月末時点・公開論文調査に基づく・Quemix調べ)の試みになります。計算対象とした窒化アルミニウム結晶中の欠陥※5は、従来の量子化学計算手法では計算精度に課題がありましたが今回、量子・スパコンハイブリッドコンピューティングによって高精度な物性値の算出が可能となりました。その結果、窒化アルミニウムが量子ビット材料の母材として高いポテンシャルを有していることを明らかにしました。
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今後、FTQC向けアルゴリズムの実用化が本格化することで、量子化学計算分野やマテリアルズ・インフォマティクス※6分野のさらなる発展と加速が期待されます。また、窒化アルミニウムの量子ビット材料の母材としての新たな応用開拓が広がり、窒化アルミニウム高品質単結晶基板および高度な薄膜結晶成長技術への注目が高まることが期待されます。
研究概要
西 紘史(Quemix 研究開発部 部長)、小杉 太一(同 主任研究員)、武井 祐樹(旭化成 研究・開発本部基盤技術研究所 グループ長)、三枝 俊亮(同 主幹研究員)、夏目 穣(旭化成 デジタル共創本部インフォマティクス推進センター 部長)、青柳 岳司(同 シニアフェロー)、松下 雄一郎(東京大学大学院理学系研究科 特任准教授、QST 量子機能創製研究センター 量子材料理論プロジェクトプロジェクトチーフ)らは、Quantinuum社製量子コンピュータと東京大学物性研スーパーコンピュータからなるハイブリッドコンピューティングを用いて量子化学計算を実行し、窒化アルミニウム中の複合欠陥が新たな量子ビットとして機能する可能性を明らかにしました。また、量子コンピュータ上で、量子誤り検出符号を用いた論理ビット上でのFTQC向けアルゴリズムを用いて量子化学計算を世界で初めて(2025年2月末時点・公開論文調査に基づく・Quemix調べ)実行し、量子・スパコンハイブリッドコンピューティングが量子化学計算分野やマテリアルズ・インフォマティクス分野において強力なツールとなることを示しました。
半導体物質中に存在する複合欠陥※7は、母材にはない新たな機能を発現することが知られています。複合欠陥は、究極的な超微細ナノテクノロジーと言えます。近年注目されている新機能デバイスとして、量子技術に不可欠な量子ビットが挙げられます。量子ビットは、さまざまな量子デバイス※8を構成する重要な部品であり、量子コンピュータ、量子センサ、量子エンジン、量子電池などでの活用が期待されています(図1)。量子ビットは未来社会のさまざまな量子デバイスに組み込まれるため、それぞれの用途に適した材料設計が求められています。そのため、量子ビット材料にも多様性が求められており、新規量子ビット材料の探索は量子技術のさらなる発展に不可欠な研究領域となっています。その中で、窒化アルミニウムに代表されるワイドギャップ半導体※9は、その大きなバンドギャップから、多彩な量子ビット材料を生み出す量子ビット母材として大きなポテンシャルを有することが知られています。近年、マテリアルズ・インフォマティクスという情報科学やシミュレーションを用いたコンピュータによるアプローチによって、新材料探索を加速しようという試みが世界中で産官学を巻き込む形でなされています(図2)。今回の共同研究も、新規量子ビット材料探索にコンピュータシミュレーションを活用しようという試みの一環となっています。
図1.スピン欠陥とそれを活用した量子技術群
図2.シミュレーション活用による新規スピン欠陥材料探索のフロー図(イメージ)
しかし、量子ビットの特性を定量的にかつ詳細に調べるには、電子のスピン(電子の自転によって生じる微小な磁石)の振る舞いを、基底状態(最もエネルギー的に安定な状態)と励起状態(室温で物質の性質に影響を及ぼす程度に電子のエネルギーが高い状態)の両方において精緻に理解する必要があります。そのため、密度汎関数理論※10を用いた従来法よりも高精度な量子化学計算を実行する必要がありました。ところが、従来法の密度汎関数理論よりも高精度な量子化学計算を実行しようとすると、計算の規模(具体的にはシミュレーション対象の原子数)が大きくなると計算時間が指数関数的に増大することが知られています。そのため、高精度な計算をより高速に実行する計算スキームの開発が重要な課題となっていました。
近年、量子コンピュータの発展は目覚ましく、特にハードウェア性能の向上とエラー訂正技術の革新は世界的に急速に進展しています。これまでの量子コンピュータに関する研究はNISQ(Noisy Intermediate-Scale Quantum)デバイスと呼ばれる、計算途中でエラーが発生する量子コンピュータが主流であり、いかにしてNISQデバイスで有効な計算アルゴリズム(NISQアルゴリズム)やアプリケーションを開発するかが、2014年から10年間続いた研究の主要なテーマでした。ところが、当初は遠い未来と考えられていたFTQCやその前段階であるEarly-FTQCも今や、その実現を急ぐロードマップが次々と発表され、量子コンピュータの研究開発が次の展開に突入しつつあります。FTQCの性能を最大限に引き出す量子アルゴリズム(FTQCアルゴリズム)の研究開発とその実証化が重要になっています。特に、全てのハードウェアメーカーが量子コンピュータのビジネス活用が最も早く始まると考えている分野が量子化学計算です。量子化学計算の対象となる原子分子のナノレベルでの材料設計は、そもそも量子力学が支配している世界であり、量子の世界を記述するには量子コンピュータが最適な計算機であると考えられているためです。現在、FTQCアルゴリズムの現実的な量子化学計算への応用例の開拓と実用化が重要な課題となっています。
今回の共同研究においては、Quantinuum社製量子コンピュータと東京大学物性研究所スーパーコンピュータを連携させたハイブリッドコンピューティングを用いて量子化学計算を実行しました。現在の量子コンピュータは、量子ビット数に限りがあるため、現実的な問題を解くには限界があります。そこで、東京大学物性研究所スーパーコンピュータ「ohtaka」を用いて、300原子を含む計算対象に対して、まず密度汎関数理論で粗く計算を行いました。その後、ダウンフォールディング法という計算手法を用いることで、計算精度を落とさずに問題の規模を縮小し、高精度計算が必要となる本質的に難しい問題領域を抽出しました(図3)。具体的には、複合欠陥を取り巻く窒化アルミニウム母結晶からの寄与を取り込みながら、複合欠陥近傍の電子状態のみを抽出しました。次に、Quantinuum社製のイオントラップ型量子コンピュータ「H1-1」実機を用いて、抽出された問題に対してFTQCアルゴリズムを実行し、高精度計算を実施しました。しかし、現在の量子コンピュータにはまだ誤り訂正技術が実装されていないため、量子ノイズの影響を受けやすく、計算結果に誤りが生じてしまいます。本研究では、Iceberg符号と呼ばれる量子誤り検出(QED)符号を用いることで、量子ノイズ(計算誤り)の影響を軽減し、高精度なFTQCアルゴリズムの実行を可能にしました。Iceberg符号は、符号化とシンドローム測定にわずか4つの補助量子ビットしか必要としないため、現在の量子コンピュータに適した符号です(図4)。このように、今回の研究では量子誤り検出符号によって、量子計算途中の計算誤り(エラー)を検出することができるようにしました。もし量子誤り検出符号によって、計算途中でのエラーが検出された場合、その計算結果は破棄することにしました。このように量子誤り検出符号を利用することで、計算途中でエラーが生じなかった計算結果のみを用いた解析を可能にし、現在の実機上でFTQCアルゴリズムを実行することに成功しました。複合欠陥の量子状態を正確に計算するためのFTQCアルゴリズムとして、Quemixと東京大学とQSTとで共同開発を進めてきた確率的虚時間発展(PITE)法を用いました。PITE法は、FTQC時代に向けて設計を進めてきたアルゴリズムであり、量子化学計算を加速することが数学的に証明されている量子アルゴリズムです。なお、量子コンピュータ実機上で、QED符号と基底状態計算のためのFTQC向けアルゴリズムを組み合わせた計算の実行は今回が世界初の報告となります。実際に計算を実行した結果、QEDによって誤差が効果的に削減され、高精度に複合欠陥の基底状態と励起状態の両方を取得することに成功しました(図5)。実際に、理想的なFTQCマシンの98%の精度を、現在の量子コンピュータハードウェアでも実現可能であることを実証しました。これは極めて高い正確性であり、現在の量子コンピュータハードウェアの完成度が実用化レベルになりつつあることを反映しています。また、計算結果の解析に関しては、量子ビット状態の詳細な解析技術を有するQSTが担当しました。その結果、ZrAlVN、TiAlVN、HfAlVN複合欠陥が量子ビットとして高い可能性を秘めていることを示しました。具体的には、いずれも量子ビット材料として有望なダイヤモンドNVセンタと同じ電子状態であるスピントリプレット状態(複合欠陥近傍において、電子スピン2つ分が同じ向きにスピンを揃えた状態)を基底状態として有し、励起状態としてスピンシングレット状態(複合欠陥近傍において、全ての電子スピン同士が互いにスピンを逆向きに向け合い、スピンの磁性を打ち消し合った状態)を取っていることが分かりました。また、スピントリプレット状態において励起させるために必要な光の波長はおおよそ400nmとこれまでに知られている励起光としてもっとも高エネルギーな波長帯であることが分かりました。一方で、スピンシングレット状態における励起状態としては、2500nmと低エネルギーであることが分かりました。このように、スピン状態に依存して励起状態が大きく異なる特異な量子物性値を有することが今回の研究成果により明らかになりました。量子ビット材料の多様性が求められる中、他の材料には見られない特異な量子ビット状態を窒化アルミニウム結晶中において見出すことができました。なお、今回の計算対象の規模に限れば現在のスーパーコンピュータでも計算を実行できますが、今後、問題規模が大きくなると量子コンピュータの優位性が明確になっていきます。本研究は、量子コンピュータを用いた量子化学計算における重要な一歩であり、FTQCアルゴリズムの実用化に向けてのマイルストーンであると共に、将来の量子ビット材料の開発に貢献することが期待されます。
本研究成果は2025年3月10日(米国現地時間)Physical Review Appliedオンライン版にて公開されました。
図3.今回の研究に用いた原子構造の計算システム(300原子)。青い大きい球はアルミニウム原子を、白い小さい球は窒素原子を表しています。また、黄緑色の球は窒化アルミニウム結晶中のハフニウム原子を表しています。黄色の面は、複合欠陥に由来する局在スピン密度を表しており、ハフニウム原子とその隣のサイトの空孔構造に強く局在しています。複合欠陥周りの窒化アルミニウム結晶の電子状態からの寄与を取り込み、複合欠陥近傍の電子状態を記述する問題を抽出する様子を赤い矢印で示しています。
図4.量子誤り検出と量子誤り訂正技術の概念図。現在のNISQデバイスでは、計算途中にエラー(図中の黄色のマーク)が発生する可能性があります。もし計算途中でエラーが発生した場合、計算途中で実行されるシンドローム測定により、そのエラーを検出することができます(量子誤り検出)。検出されたエラーの有無の情報に基づき、復元ゲート操作を行うことが量子誤り訂正です。本研究では、量子回路深さの関係から、量子誤り検出までを実行しています。
図5.量子コンピュータ実機上での実行結果。基底状態に対する結果(左図)と励起状態に対する結果(右図)。それぞれの図において、初期状態を緑色、厳密な虚時間発展法を黄色、ノイズのない理想的な量子コンピュータの場合を水色、ノイズモデルを取り入れたシミュレーション結果を赤色、量子誤り検出符号を用いた量子コンピュータ実機上での結果を青色、量子誤り検出符号を用いない時の量子コンピュータ実機上での結果を黒色で示しています。
語句説明/注釈
※1.ゲート方式量子コンピュータ:
量子ビットの量子状態に対し、ゲート操作を施す(施す一連のゲート操作の時系列を表したものが量子回路と呼ばれる)ことで、汎用的な計算を可能とした量子力学に基づいて動作するコンピュータのことです。
※2.誤り耐性量子コンピュータ(FTQC):
量子誤り(エラー)訂正の仕組みを取り入れたゲート方式量子コンピュータのことです。計算中に誤りが発生しても訂正できるため、信頼性の高い量子計算が実現できます。
※3.量子アルゴリズム:
量子コンピュータ上で実行されるアルゴリズムのことです。古典コンピュータにおいては、四則演算を基本演算としてさまざまな計算を実行するため、所望の計算は全て四則演算に書き換えて実行いたします。一方で、量子コンピュータにおいては、ユニタリ演算が基本演算であるため、所望の計算を全てユニタリ演算に書き換えて実行する必要があります。そのため、今のコンピュータで動くアルゴリズムがそのまま量子コンピュータで動く訳ではない点は注意が必要です。
※4.量子化学計算:
コンピュータの仮想空間中に物質を構成し、量子力学計算により電子と原子核の振る舞いをシミュレーションすることによって、その物質の特性を仮想空間中で再現・予言しようという計算のことです。
※5.欠陥:
結晶構造中において現れる配列の「乱れ」のことです。例えば、結晶構造中の原子の欠損である「空孔」や、結晶とは異なる元素が結晶中の原子を置換した「置換」欠陥などがあります。
※6.マテリアルズ・インフォマティクス:
情報科学やAI(人工知能)を活用して材料開発の効率を高める方法のこと。膨大な実験データやシミュレーションデータを解析し、所望の材料特性を実現しうる物質の組成を予言することで、新しい材料の発見や開発を加速させることを目指します。
※7.複合欠陥:
複数種類の欠陥が同時にペアを組んで出現した欠陥構造のことです。例えば、「空孔」欠陥と「置換」欠陥がペアになった、「空孔-異元素置換」ペア欠陥などが挙げられます。
※8.量子デバイス:
量子力学の原理に基づいて動作するデバイスの総称です。従来の電子デバイスなど、古典力学で理解できるデバイスとは対照的に、量子特有の現象を利用します。
※9.ワイドギャップ半導体:
従来のシリコン半導体よりも大きなバンドギャップを持つ半導体材料です。高い耐熱性、耐圧性、高周波特性を持ち、パワーデバイスや高温環境下でのセンサなど、さまざまな分野への応用が期待されます。
※10.密度汎関数理論:
量子力学における多体問題を扱うための理論の一つです。電子密度を用いて系のエネルギーを計算し、物質の性質を予測します。材料開発や化学研究など、幅広い分野で活用されています。