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量子力学の観点からメス  生命の謎に迫る

掲載日:2022年3月9日更新
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日刊工業新聞 2022年3月7日 「卓見異見」​​

分子生物学の限界

 第4の波後半の20世紀、分子生物学が大きく花開いた。デオキシリボ核酸(DNA)二重らせん構造の発見に始まり、DNAに記された遺伝情報からたんぱく質が作られる仕組みやその役割などが明らかになった。がんやさまざまな病気に対する医薬、新型コロナウイルスに対する治療薬やmRNA(メッセンジャーRNA)ワクチンなどが開発され、人類は分子生物学の恩恵を受けている。

 ヒトを始めとしたさまざまな生物種の全遺伝情報(ゲノム)もすでに解読され、生物の部品の情報が得られた。しかし、自動車は分解して組み立てると動くが、ヒトや大腸菌を分解しても元通りにならない。部品どうしの繊細な相互作用の情報が欠落しているからだ。つまり要素還元的なアプローチだけでは「生命とは何か?」に対する答えを得ることはできない。

 第4の波で花開いた分子生物学の限界が見えた。第5の波は量子生命科学が花開くと考える。量子論・量子力学の視点や技術で生命科学にパラダイムシフトを起こそうとするのが、量子生命科学だ。生命科学の発展は科学技術の発展に依存する。16世紀末に光学顕微鏡が発明されて細胞が発見され、生命科学は分類学から細胞生物学にパラダイムシフトした。そして、電子顕微鏡や遺伝子工学の技術革新で分子生物学が花開き、免疫学、ウイルス学、脳神経科学などの生命科学が飛躍的発展を遂げた。

量子の目で観る

 量子力学に基づいた計測技術を生命科学に応用すれば新しいことが分かるはずだ。量子力学の観点から研究すれば生命の謎に迫れるかもしれない。2016年に量子科学技術研究開発機構(QST)理事長に就任した時にこう考え、ゼロから始めた取り組みが日本における量子生命科学研究領域の開拓だ。研究会を発足させて19年には量子生命科学会を創設し、21年にQST量子生命科学研究所を創設した。また国が定めた量子技術イノベーション拠点の一つ、量子生命拠点にQSTは指定された。

 量子センサーとして注目のダイヤモンドNVセンターは、生きた細胞の内部の磁場や温度変化などを計測でき、医学・生命科学への応用が期待される。従来の1万倍以上の感度でウイルスなどを検出することも可能だ。QSTが官民地域パートナーシップで東北に建設中の次世代放射光施設の軟X線領域放射光や、中性子による最新の分子構造解析技術は、生体内の分子の立体構造だけでなく、生命機能をつかさどる電子の振る舞い、つまり「部品どうしの繊細な相互作用」までも明らかにできる。

 生命活動での量子効果も明らかになってきた。植物は光合成で効率よく太陽エネルギーを化学エネルギーに転換しており、光エネルギーの効率的受容には量子効果が関与するようだ。この仕組みを応用すれば高効率な太陽電池の開発につながる。渡り鳥は量子力学の原理で微弱な地磁気を検知して方向を決めているようだ。いわば人工衛星に頼らない全地球測位システム(GPS)のようなものだ。

第5の波を乗り越える

 放射線によるDNA突然変異や修復機構も量子レベルで研究すれば新しいことが分るはずだ。放射線障害の治療薬開発につながるかもしれない。量子論の数学的枠組みや情報科学の力も使えば、意識や生命の謎に迫れるはずだ。

 人類の歴史20万年を経て、永遠の寿命を獲得するかもしれない。すでに人類初のサイボークまで登場しようとしている。人生の意味の再定義、心の問題、仮想空間と現実空間の一体化など、さまざまなパラダイムシフトが起きつつある。地球上のすべての生命は地球で育まれた。その結果として寿命、肉体、心や意識が創られた。

 人類は自らの遺伝情報すら書き換えて地球生命体から別れを告げ、別次元の生命体、ホモ・サピエンス2.0に脱皮するかもしれない。永遠の寿命、そして太陽から独立した水素融合(核融合)エネルギーを獲得し、宇宙に活躍の場を移そうとする。だが、いかなる未来も第5の波を乗り越えなければ来ず、対立の余裕はない。「調和ある多様性の創造」で多様性の爆発を回避しなければならない。新型コロナは、人類にあらためて「地球市民」の自覚を求めている。