量子科学技術で作る未来 第29回
切らずに日帰りがん治療、「健康長寿社会」一翼担う
近年、がん治療は大きく進歩しているが、依然日本の疾病死亡率で第一位を占めている。さらに、超高齢化社会に突入し、心身ともに自立して健康的に生活できる健康寿命の延伸が重要な課題となっている。そのため、患者の身体的・社会的負担が少なく、治療後の生活の質が高いがん治療法が求められている。
量子科学技術研究開発機構(QST)が取り組む重粒子線がん治療は、加速器により炭素イオンを光速近くまで加速し、体内のがんに照射して死滅させる放射線治療の一種である。炭素イオンは、がんに線量を集中できることに加え、通常の放射線に耐性を持つがんに対しても有効という特徴をもっている。
QSTの前身のひとつである放射線医学総合研究所が、日本で初めて臨床研究を開始してから27年。重粒子線がん治療は、今では初期の肺がんを、切らずに1日で治療する「日帰りがん治療」ができるまでに技術的進化を遂げた。また、国内メーカーが重粒子線治療装置を国内外に供給しており、技術的にも商業的にも国際的優位性をもっている。
しかしながら、現在の重粒子線治療装置は体育館ほどのサイズがあり、世界でも14施設しかない。また、日帰りがん治療ができるがんの種類もまだ限られている。
そこで、QSTは2016年の発足より、中核病院で重粒子線がん治療を実施できるよう、超伝導・レーザー技術等を用いて、治療室2室分ほどのサイズに収まる革新的な小型重粒子線治療装置を、「量子ビームを用いたメス=量子メス」と名付けて開発してきた。
さらに、重粒子線がん治療の成績向上と、日帰りがん治療に向けた治療期間の短縮化のために、複数種の重粒子を組み合わせた照射や、免疫療法と組み合わせた治療など、さまざまな臨床研究を実施しており、将来的には、次のシリーズで紹介する標的アイソトープ治療との組み合わせも視野に入れている。
QSTは量子メスによる「日帰りがん治療」を実現することで、「がん死ゼロ健康長寿社会」実現の一翼を担うとともに、量子メス開発に産学連携で取り組むことで、有力な輸出医療機器に育てることを目指している。
今後、量子メスに関する一連の連載のなかでは、こうした量子メスの装置開発と、重粒子線がん治療の臨床研究について紹介する。
執筆者
量子科学技術研究開発機構(QST)
量子生命・医学部門 量子医科学研究所
物理工学部長
白井 敏之(しらい・としゆき)
加速器・ビーム物理学の基礎的研究に従事した後に、QSTで重粒子線がん治療のための加速器・照射装置開発に参加する。現在は量子メス開発のプロジェクトリーダーを務める。博士(理学)。
本記事は、日刊工業新聞 2022年1月13日号に掲載されました。
■日刊工業新聞 量子科学技術でつくる未来(29)量子メス 切らずに日帰りがん治療、「健康長寿社会」一翼担う(2022年1月13日 科学技術・大学)