量子科学技術で作る未来 第35回
重粒子線治療装置、治療以外にも利用 生命誕生・進化解明に挑む
放射線としてX線が発見されてから120年あまり。X線について数多の研究が行われ、現代社会で人々の生活に様々な形で関わっている。1930年代になると重粒子線が原子核物理研究に使われ始めたが、医学利用には大型加速器が必要となるため1970年代まで待つ必要があった。その後も、原子核物理以外の研究に重粒子線を供する施設がほとんどない状態が世界的に続いた。
そのような状況の中、量子科学技術研究開発機構(QST)は、重粒子線が原子核物理・医学利用以外の幅広い研究分野においても新しい科学を拓くきっかけを作ると考え、世界初の重粒子線治療専用装置(HIMAC)を治療以外の研究にも国内外の研究者が利用できるようにした。
現在では、長期間の有人宇宙飛行にむけ、宇宙空間を飛び交う重粒子線が人や電子機器類に与える影響、重粒子線による植物の品種改良、高速で走る原子の反応など、ユニークで最先端の研究が、物理・生物分野の数百人に及ぶ研究者により行われている。
もちろん、現在よりも効率的かつ安全な重粒子線治療法を1日でも早く実用化することがHIMACの重要な研究テーマであることは揺るがない。自身の変化だけでなく周囲の微小環境の影響により様々な治療に対して抵抗性を獲得するがん細胞に対し、重粒子線は単に❝強い❞放射線であるだけでなく、がんが獲得した治療抵抗性の影響をあまり受けないことをこれまでの研究により明らかにしてきた。
光速の70%まで加速された炭素イオンは、がん細胞の中でその軌跡に沿ってデオキシリボ核酸(DNA)二本鎖より小さい領域に大きなエネルギーを与え、独特なダメージをがん細胞に残すことが、重粒子線に特有の治療効果をもたらす。
この重粒子線の特性を活用して、がんの個性に合わせてイオンの種類を最適化する研究や、免疫療法と併用による非侵襲的な全身のがん治療法の研究、さらに、不整脈などのがん以外の疾患を重粒子線で治療する研究などが、人での臨床研究の前に、細胞や動物を用いて進めている。
重粒子線のユニークな物理学的・生物学的特性に対して理解を深めることで、より高度な医療の提供に貢献するだけでなく、生命の誕生や進化の秘密の一端が明らかにできると考え、未知への挑戦を続けている。
執筆者
量子科学技術研究開発機構 量子生命・医学部門
量子医科学研究所 物理工学部・研究統括
下川 卓志(しもかわ・たかし)
がん根治にむけた生物学的基礎研究に長年従事。現在は重粒子線の医学利用の高度化・多様化、さらに育種など新分野への応用に取り組む。博士(医学)
本記事は、日刊工業新聞 2022年3月3日号に掲載されました。
■日刊工業新聞 量子科学技術でつくる未来(35)重粒子線治療装置、治療以外にも利用 生命誕生・進化解明に挑む(2022年3月3日 科学技術・大学)